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伝説・民話

若狭和田には、まちなかに祠がこじんまりと点在し、今も大切にお地蔵さんや石などがまつられています。それにまつわる伝説・民話をご紹介。(「若狭高浜むかしばなし」より)

 
岩神のおんじく石
 
 和田の西の端、岩神(いわがみ)の旧国道筋に面して、小さなお堂がある。お堂の中には高さおよそ三メートル、周囲およそ二メートルの大きな岩がまつられている。この石にまつわる話である。
 あるとき、一人の村人が石の上にうずくまって、うたた寝していると、突然この石が天をつくばかりの大きな岩になった。そして、「われは岩神なり。この世をぶちこわしてやる」と、大声で告げた。びっくりして村人は目をさました。それから、村のみんなに夢のお告げを伝えた。「あの石は神様なのじゃ、大事にせゃ」「そうだ、祠(ほこら)をつくっておまつりしよう」「そうすれば、たたりが起こらないだろう」村人たちが集まって、祠を建て石をまつったのだった。そうして、このあたりに岩神という地名が付いたのだといわれる。
 ある日、ここを通りかかった巡礼者が、この石に虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)のお札を張った。それからというもの、近郷近在からは “こくぞうさま参り”といってたくさんの人びとがお参りに訪れた。この石は珍しい温石(おんじく)だったので、“霊験(れいけん)がある”と人々は信じた。
 それからこんな話もある。伝兵衛という家の老婆が、その温石をけずり取り、いろいろの病気に効くといいふらして、人びとに売り歩いた。確かに温石の粉は効き目があったそうだ。
 その昔、巡礼老が虚空蔵菩薩のお札を石に貼ったころは、お堂の屋根はわら屋根だった。ところが村人に夢のお告げがあり、「わら屋根では、わらのごみが落ちてきて、きたならしい」といわれた。村人たちはさっそく屋根を瓦ぶきにふきかえたそうな。


馬居寺(まごじ)のいわれ
 
 むかし、推古天皇(すいこてんのう)(554〜628)の時代に聖徳太子(しょうとくたいし)が秦河勝(はたのかわかつ)を従えて、甲斐(かい)の黒駒(くろこま)にまたがって各地をおまわりになったときのことである。
 聖徳太子は若狭国の高浜の海辺で、ひととき休まれた。しばらくくつろがれているうちに、黒駒の姿が見えなくなった。「馬がどこかへいってしまった。どうしたことだろう」みんなは不思議に思いながら、あちらこちらを眺めて、馬の姿を探した。ずっと見渡しても砂浜には見当たらない。すると、そのとき山の上の方で、馬のいななきが聞こえた。みんながそちらの方を向くと、いななきのするあたりはまぶしいばかりに光り輝いていた。「あれは何だ」「後光がさしているように見える」そこで、聖徳太子がいわれた。「あそこは観音さまの霊地である」光り輝くところまでいかれて、そこに塔を建て本尊をまつられた。そして、そこに寺を建てるようお命じになった。その寺が本光山馬居寺(ほんこうざんまごじ)である。
 そうして、この寺のある一帯は、寺の名をとって馬居寺(まごじ)という、馬居寺は約千三百年前 に建てられた。福井県最古の寺として知られる。ご本尊の馬頭観世音菩薩(ばとうかんぜおんぽさつ)は平安時代の後期に作られたもので、現在、国の重要文化財に指定されている。


ひとこと地蔵
 
 ぽかぽか陽気のある春の日のことである。和田に住んでいるおばあさんは、あまりにお天気がよかったので、ちょっとその辺へ散歩に出ることにした。「ほんまに、今日は散歩日和やわ」ふだんはほとんど外出せず、家でじっとしているおばあさんだったが、なぜかその日はからだが自然に動いてしまった。
 春の日差しを気持ちよく受けながら、てくてく、てくてく歩いていくと、おばあさんはいつのまにか山の中に釆ていた。「何だかちょっと来過ぎたみたいやわ。そろそろこの辺で引き返そうかね」おばあさんが方向を変えようとしたとき、道端に変わった形の石がころがっているのに気が付いた。「おや、こりゃまた珍しい石だこと」おばあさんは、腰をかがめてその石を拾った。 そして近くでまじまじ眺めていると、その石がだんだんお地蔵様のように思えてきたのである。「とにかく持って帰って、おじじに見てもらおう」おばあさんは、石を大事そうに小脇にかかえ、早歩きで山を降りていった。家に帰るとおばあさんは、さっそくおじいさんにその石を見せた。「この石はお地蔵様にちがいない。さっそくおまつりするとしよう」おじいさんはたいへん喜んで、その石を家にまつることにしたのである。
 ところが、数日後のことである。あばあさんは朝から突然腰が痛くなり、動けなくなってしまった。「このお地蔵様は、うちにまつっておいてもご利益がないのかもしれん。もとの場所に戻した方がよいじゃろう」おじいさんはおばあさんから、石を拾った場所を聞き出し、その石を返しに山へ出かけていった。「おばばの腰痛が早く直りますように」とお祈りしながら。おじいさんが山から帰ってくると、不思議なことに、おばあさんの腰痛ははとんど和らいでいた。
 その話を開いて村の人たちもおまいりをするようになったという。そのお地蔵様は、“ひとこと地蔵”と言って、一言だけなら願いが叶うそうである。また“ひとこと地蔵”は首から下のないお地蔵様で、特に下の病気に効果があると言われている。
 今でも、″ひとこと地蔵“には、お線香やお茶などのお供え物が絶えないという。


和田の水田
 
 和田の水田地帯は、かつて沼だったという。江戸時代初期、沼を埋め立て豊かな耕地をつくったのは、一人の乳母だった。
 その乳母は和田村の出で、小浜藩主酒井忠直(さかいただなお)に仕えていた。実に忠誠よく奉公したため、大変喜ばれていたそうだ。
 ある日、「ほうびをとらすから、何なりといってみよ」そう藩主より申し渡された。乳母は少し考えてから静かに、けれどはっきりといった。「私の郷里は、深毛(ふげ)という場所が一大沼地となっており、昔から耕地が少のうございます。 この沼地を埋め立て、耕地にしてくだざいましたら、村は必ずや繁栄することでございましょう。私のほうびごときは望むところではございません。どうか、この埋め立てをお願いいたします」。その故郷を思う気持ちに感心した忠直は、すぐさま各村から人夫を集め、この大事業を始めた。埋め立て用の土には、月見山(つきみやま)の土が多く使われたという。
 やがて沼は消え、そこには立派な水田が現われた。乳母はほは笑みながら、いつまでもいつまでも水田をながめていた。


新宮神社(しんぐうじんじゃ)
 
 神社の始まりは、何らかの言い伝えがあることが多い。これは、新宮神社ができたときの話である。
 康治(こうじ)元年(1142)十一月十三日のことである。村の漁師がいつものように海へ出て舟で網を打っていると、重い石のようなものが網にかかった。“こりゃ、重いぞ”力いっぱい引上げようとしたが、なかなか上がってこない。それでも無理に網を引っ張っていると、にわかに辺りが暗くなってきた。静かでどことなく重々しい感じがする。いつもと違う光景に漁師はすっかり怯えてしまった。そのまま、漁を続けることもできず、思い切って、網はそのまま捨てて家に逃げ帰ってきてしまった。次の朝、捨ててきた網を取りにこわごわ、その場所へ行ってみると、何かが網に掛かっていた。よくみると、石ではなく古木で作られたご神体(しんたい)であった。それを見て漁師は村に戻った。「わしの網にご神体が掛かっている。みんないっしょに見にきてくれや」「ほんとに、ご神体かね」「まず、いって見ようや」村のみんなは網のところまでやってきた。「ほう、ありがたや、ありがたや」ご神体であることが分かって、みんなはおそれかしこんだ。そしてさっそくご神体を村の本郷庄司(ほんごうしょうじ)氏宅へ持ち込んで、ここでおまつりしたのだった。
 それを伝え聞いた村人たちが、朝早くから夕方まで絶え間なく訪れてはお参りした。漁師たちは、海から大きな石を取り寄せ、門に立てて鳥居になぞらえた。そして、お百姓たちは、浜から砂を運んで敷地内を清めた。村人たちは毎日の参拝を一人として忘れるものはいなかった。
 こうして、次の年の康治二年二月十四日、愛宕山のふもとに社を建て、ここにご神体をおまつりすることとなった。それが新宮神社の始まりである。神社ができたことによって村人の信心はますます深まり、村は前にもまして平和になった。ご神体が上がった場所は新宮谷と呼ばれている。


はったい地蔵
 
 西の方から和田区に入ってまもないところ県道(昔は若狭街道と呼んだ)沿いに、高さおよそ四尺(一・二〇メートル)ばかりの石碑が立っている。この石碑を村人は″はったい地蔵“という。そういわれるようになったのは、開き違いからだった。
 いつのころからか、街道沿いに石碑は立っており、石の表面には『応無所住而生其心(おおむしょじゅうにしょうごしん)』(金剛経の一句)と刻まれていた。
 むかし、このあたりに一人の老婆がいて、いつも石碑をおがんでいた。そして、石碑に祈っては、病に苦しむ人を助けた。「おばばにおがんでもらうと、体がいつのまにか楽になってくる」「わしゃ、足の痛いのを治してもらいたいので、お頼みしたら、いっしょうけんめいに石碑に祈ってくれた。お陰で、治ったよ」そんな噂を開いて、病む村人たちが老婆のもとへとやってきた。老婆はお経を唱えているのだが、みんなの耳にはどうも「オームギ、バッタイ、ニショウゴンゴウ」(大麦ばったい二升五合)と、聞こえる。それもそのはず、みんなには石碑の表に書かれている字がむずかしくて読めなかったから、日頃、使いなれている言葉に、聞こえてしまう。その方が覚えやすいのだ。
 そうこうするうちに、村人たちはこの石碑を“はったい地蔵”というようになってしまった。また、この″はったい地蔵“には乳の出を必ずよくしてくれるご利益があるといって、乳の出が悪い人が願をかけにきた。そして、願いがかなって乳のでがよくなると、そのお礼に”はったい″(麦の新穀を炒って、ひいて粉にしたもの)を供えるのが、ならわしとなった。このならわしは今も続いているという。


和田の蛇塚(へびづか)
 
 和田の田んぼのなかに、五輪塔(ごりんとう)一基がある。むかしから、これを「蛇塚」という。蛇塚は、約二メートル四方の玉垣で囲まれてあった。
 むかし昔、カンギョウ谷(現在の片谷(かただに))に大蛇が住んでいて、村人たちにたびたび害を与えていた。「この間は、うちの牛がおそわれた」「やれやれ、あんたんとこもか」「どうしようもないな」みんな口々に大蛇による被害を話した。しかし、ついに我慢できなくなった人びとは、大蛇退治のために集まった。「何とか、大蛇を退治できないものか」「いや、そんなことをして、後のたたりが恐ろしいぞ」「このままでは、わしらの生活がめちゃめちゃにされてしまう」「そうだ、そうだ。みんなで退治しよう」そう決まると、村人たちは力を合わせて、ついに大蛇を退治したのだった。大きな大きな蛇だった。みんなは、蛇を供養(くよう)するために五輪塔を一基立てた。それが、“蛇塚”といわれるようになったわけである。
 また、別の話では五輪塔は高浜城主の逸見公(へんみこう)の供養塚で、“へんみ塚”だったのが、後でなまってしまい、“へび塚”になったのではないかと、いわれている。
 むかし、五輪塔を囲んでいた玉垣は、今では泥の中に没してしまって、すっかり見えなくなっている。
 この蛇塚は、室町時代後期の作といわれ現在、高浜町の文化財に指定されている。


和田村の晴明石(せいめいいし)
 
“恋しくば尋ねてきてみよ泉なる信太(しのだ)の森のうらみ葛(くず)の葉”母キツネが小さな子をおいて去っていったときに、障子に書き残したのが、この一首。
 突然姿を消してしまった母を求めて、泣き叫んだ子供が大きくなって、“阿倍晴明(あべのせいめい)”と呼ばれるえらい人になったというが、浄瑠璃(じょうるり)や民話として今に伝えられている。
 阿倍晴明は、平安中期の陰陽家(いんようか)、つまり今でいう天文学老だった。陰陽(いんよう)・推算(すいさん)の術を学び、精霊(せいれい)を使って天文を解き、世の事変を予見したそうである。つまり、予言者でもあったようである。現在もわが国天文学、暦学(れきがく)の祖として知られる立派な人物である。
 この阿倍晴明が、全国を巡る旅に出かけたおりに、和田村に立ち寄った。歩き疲れた阿倍晴明は、道端にあった石に腰を掛けていっぷくしていた。通りがかりの村人がたずねた。「遠くからお見えのようですが、何をなさっておられる方ですか」「私は、陰陽を学ぶもので、阿倍晴明と名乗るもの」後で、村人が学のある人にそのことを話したところ、阿倍晴明が実は暦学に通じたたいへん立派な人であることが分かったのだった。
 それからは、村の人たちは、晴明が腰をおろした石を“晴明石(せいめいいし)”と言い伝えるようになったという。今は田淵家の玄関前に置かれている。